先日、自宅の風呂掃除をすると、気づかないうちに風呂場の排水溝にずいぶんと汚れが溜まっていました。その汚れを落とそうとタワシでこすりましたが、時間をかけて汚れのたまった排水溝は簡単にはきれいになりません。それを見ていると、いくら心をきれいにしようと修行をしても、止むことなく次から次へとわき出てくる煩悩(ぼんのう)をイメージしました。
釈迦(しゃか)の教法(きょうぼう)ましませど 修(しゅ)すべき有情(うじょう)のなきゆゑに さとりうるもの末法(まっぽう)に 一人(いちにん)もあらじとときたまふ
という親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)のご和讃があります。 これは、末法という現代では修行をしても仏さまになることができる徳の高い僧侶がおらず、仏様になるには阿弥陀(あみだ)様の救いに身を任せるしかないことを述べられています。
修行をして仏様になるということは、煩悩によって起こる怒りや欲望、愚痴(ぐち)などをきれいに洗い流し、清らかな身となることと言えるでしょう。お釈迦さまがおられた時代では、修業をしてその身を清らかにすることができたのでしょうが、現代の私たちは、体から出るアカのように怒りや欲望、愚痴が湧いて出てきます。それが煩悩にまみれた、救われがたい愚かで罪深い私たちの姿なのです。
阿弥陀様は、煩悩というアカにまみれ、いくら心をきれいにしようとしても煩悩が尽きない私を「そんなお前だからこそ、救わずにはおれない。私に任せてくれ」と、南無(なも)阿弥陀仏(あみだぶつ)となって喚(よ)びかけて下さっているのです。