鹿児島別院について / 鹿児島別院の沿革

鹿児島別院の沿革

 今からおよそ140年前の1878(明治11)年。天文館の地に1本の杭が打ち込まれ、鹿児島別院の歴史は始まります。鹿児島別院が建立されて以降、多くの方々が御本尊である阿弥陀如来に手を合わせ、お念仏を称えてきました。

 しかし、その道程は順風満帆なものではありませんでした。室町時代末期から始まった薩摩藩による念仏(浄土真宗)禁制と弾圧によって、薩摩の念仏者たちは禁が解かれるまでの約300年間、隠れて手を合わさざるを得なかったのです。

 また、幕末から全国的に起こった仏教弾圧運動「廃仏毀釈」では、薩摩藩に存在した仏教寺院は全て破却。僧侶も全員が還俗させられるなど、他に類を見ない厳しい環境の中であっても、先人たちは信仰を捨てることなく、浄土真宗は脈々と伝えられてきたのです。

 そして、1876(明治9)年9月5日。一片の布達が鹿児島県参事の田畑常秋氏より出されます。

 「各宗旨ノ儀自今人民各自ノ信仰二任セ候条此段布達候条」

 ただ一片の布達。しかし、この一片はただならぬ一片でありました。ついに長かった禁制に終止符が打たれたのです。

 その後、1ヶ月ただずして、本山・本願寺より開教使に任命された6名が鹿児島へ到着。石灯籠(いずろ)通りの柳田喜助氏の自宅を御本尊の仮懸所として、鹿児島の開教が始まりました。

 その後周辺を転々としながら、明治11年に現在地を取得。紀州にあった性応寺を買得して移築し、別院が建立されることになりました。開教の拠点ができたのです。なお、御本尊は移築に合わせて性応寺の阿弥陀如来像をお迎えしたと伝わっています。

明治11年 本堂(和歌山性応寺)

 初代本堂が建立されて以来、参拝者の数は増え続け、本堂新築事業が立ち上がります。明治24年、再建計画が立ち上がったものの、計画は停滞。存続か頓挫かを迫られた菅了法所長(当時の代表)は、計画の規模をさらに拡大し、事業の存続を決定。この判断には、鹿児島別院が南九州における念仏の根本道場としてあるべきとの熱意の表れでしょう。

 計画から5年たった明治30年、ついに新しい本堂が完成したのでした。公式の記録は焼失して残っていませんが、写真や材料の大きさを推測するに、かなりの大きさを誇っていたことがうかがい知れます。

鹿児島別院旧本堂(明治25年着工、明治30年建立)

 大正3年に起こった桜島の大正大噴火の被害を受けながらも、別院の施設などを充実させていきました。特筆すべきは鉄筋コンクリート造りで洋館の大正会館を建築。多くの市民が学びの場として、交流の場として賑わったそうです。

大正会館

 しかし、残念ながらその立派な本堂は、昭和20年の鹿児島大空襲で一夜にして灰燼に帰してしまいました。御本尊などの仏具は出張所に疎開していたため難を逃れましたが、当時の人たちが焼け野原となったこの地を見て、絶望の淵に立たされたことは想像に難くありません。

太平洋戦争で消失した鹿児島市街地

 しかし、そんな絶望の中でも、先人たちはあきらめませんでした。唯一残った大正会館を仮の本堂とし、御本尊をお迎えしてお給仕をすることになったのです。

 戦後復興の厳しい状況の中で懇志をいただき、昭和24年、見事に本堂が落成しました。鹿児島のご門徒もきっと安堵されたことでしょう。

別院仮本堂(昭和24年11月建立)

 そして昭和50年、鹿児島別院再建に向けた委員会が結成され、多くのご門徒の方々の協力を得て、昭和57年、ついに鹿児島別院は再建されました。これが現在の鹿児島別院になります。

 建築から30年を経た鹿児島別院は桜島の降灰などで老朽化が進み、修復が必要になっていました。また、昭和57年の再建のときはできなかった内陣の極彩色の荘厳も施されることとなり、平成25年に屋根瓦のチタン化工事がなされ、改めて鹿児島別院が南九州における念仏の拠点としての機能を充実するに至りました。

 明治9年からの開教から4度の建築。多くのご門徒に支えられ、この地に別院があるのも、先人たちのお念仏に賭けた熱意の表れでしょう。

平成25年 修復完了
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