春のお彼岸のご縁に講師として招かれた際、お参りの方々に「本日、お彼岸のお参りになられている皆さまの中で、そのうち自分は死ぬであろうと思う方は手を挙げて下さい」と尋ねますと、多くの方々が手を挙げられます。
しかし、果たしてそうでしょうか。私たちが仏さまの前で手を合わす姿は死ぬための姿なのでしょうか、いえ、仏さまとなるお育てをいただく姿ではないでしょうか。死ぬことと仏さまになることは意味が違います。彼岸とは、私たちが確かに彼の岸(極楽浄土)に向かって歩ませていただいているかをお聞かせいただくご縁であります。中にはお浄土などあるものかと言う人もいますが残念に思います。
私は現在6人家族です。父母兄弟とは別に暮らしていますが、死に別れるだけの人生なのでしょうか。そうであるならば空(むな)しいだけの人生に思います。尊いご縁によって人として生まれ、人と人との出会いを喜び、生き生かされる教えが仏教であり、浄土真宗です。空しく過ごさせんと「まかせよ救う」の喚び声が南無阿弥陀仏のお心です。
さて、ある家族のご縁に遇わせていただきます。限られた母との時間の中、申された息子さんの言葉が今も思い出されます。「お母さんありがとう、お浄土に参らせていただいたら僕達を待っていてね。僕達も必ずお浄土に参らせていただくからね。いつも一緒だよ、これからも一緒だからね、お母さん」
愛別離苦(あいべつりく)を超えた仏さまの光に包まれたご家族でした。苦しみ悲しみに生きるこの私が阿弥陀さまのお心に遇い、願いに包まれ喜び生かされる今日であります。